あの日に時間旅行ができたら

「せっかくの大事な時間なのに、なんで眠いのよ」

旅館の夕食をたらふく食べて飲み慣れない酒もかなり飲んだうえ、明け方ちかくまで抱きあったことで翌日の私は眠さの限界だった。酒豪でタフなその子、石野はそう言ってむくれていた。そのときは下戸で体力がない自分の不甲斐なさに 申し訳ない なんて思っていたので特に言い返すこともなかったのだが、大切なことを見落としていた彼女がそのことに気づくのはその後何年も経ってからだった。

ストレスが溜まっていたのか疲れていたのか温泉旅行に行きたいという話になって熱海へ行くことにした。旅費はすべて私持ちだったが、特に不満はなかった。バイトなりにそこそこ稼いでいたのもあるが、今思えば青二才ゆえ奢ることにプライドを感じていただけだった。この時点でもお互い気付くべきだったのだが、他にも気付けるポイントが多数あったのに見過ごしていた二人が、こんな些細な金銭のことで気付くはずもなかった。

石野は高飛車な子だった。

スタイルがよく顔もまぁまぁ、トリリンガルで頭がよく、とりとめのない会話にも知性があり一緒にいて楽しかった。特に誇るものも失うものもなにもない当時の私は、一緒にいると自分に箔が付いた気がしていた。生まれつき世話焼きで優男っぽいところがあったためか気に入られることに時間はかからなかった、気がついたら付き合うことになっていた。

「ごめんね、ちょっと具合が良くなくて」

チェックアウト後に海岸を散歩していたらどんどん顔色が悪くなっていった。曇天で風が強く波は荒々しく、少し肌寒かった。自分の今の気分が天気と荒れる海にそのまま表れているようだった。旅行でテンションが上がっていたのもあって私はいつも以上に無理をしていたが、ふたりともそのことに無自覚なふりをしていた。自分が無理をしていることをわざと無視して取り繕ってみせた。石野は私が無理をしていることに気づいていたのかもしれないが、自分の感情を第一に行動してきたからか振り返ることもなかった。

なんとか体面を保って新宿駅で別れ、地元に着くころには、楽しかったなんて微塵も思っていなかった。見慣れた駅前の商店街で欲しいもの・食べたいものを無造作にとってかごに詰めた。一泊二日の旅行の日程で心が安らいだ時間は結局そこだけだった。家について一息ついた瞬間、メールがきた。

「しばらく会うのやめよう」

いかに早くメールを返すかというゲームが高校生のころ流行っていて打つのが早いともっぱらの評判だった私がメールの返信を意図的にしないでほっとくというのは、このときが初めてだったと思う。ましてや女であれば返さないはずもないのだが、なぜこんな気持ちになっているのか自分でも不思議だった。2日経ち3日経ちようやく返信しようと開いたメールには、あれやそれやが楽しかったとの言葉に旅行のお礼が一言添えてあった。

石野は旅行からの帰り際ありがとうとは言っていたし、楽しかったとも言っていたと思う。なんら矛盾はないのだが、メールを開いてすぐその文面に強烈な違和感を覚えたのだった。かといって何かを返す気力も感性の鋭さもなく、無難な言い訳をしながら返してそのメールは終わらせた。思えばこのとき既に心は離れていた。そこから2週間ほどか、ちらほらメールは交わしつつも会わない日が続いた。一ヶ月が経つ頃、なんとも遠回しな別れ話のようなものを切り出されていた。

身勝手な子だなぁという感想と同時に だろうな と一言、口から自然と出ていた。ずいぶん婉曲な言い回しだねみたいなことを返したら嫌味と捉えたのか

「別れよう」

と次ははっきりと伝えてきた。君がそうしたいのなら...選択の余地はないだろう。少し電話をしたがそこからは事務的だった。家に置きっぱなしにしていた荷物のことや、これからの生活のことなどを少し確認したくらいだった。むしろそうなることが自然で何も違和感がなく、少なくとも私はそれをすんなりと受け入れていた。悲しみに暮れたのはそのやりとりをしたその日くらいで、翌朝からはきれいさっぱりとしたものだった。

自由に好きなことをやろう、肩の荷が降りたと、このときは思っていたのだが、石野にはこの3ヶ月後に再び会うことになる。

***

あれから十数年、久しぶりに連絡を取った石野と昔話していた。彼女は酷く悔いていた、あの日の旅行のことを。大切にされないことに慣れきっていた私にとって、勝ち気で高飛車な女こそ石野だと思っていた私にとって、それは意外だった。今までずっと...。なぜ優しくしてあげられなかったのかと。なぜ手放したのかと。気づいていたのに。わかっていたのに、自分のことしか考えていなかったと、石野は泣いていた。

今も夢にみるという。

「大丈夫?」

優しくしてあげられなかったのは私の方だったのだ。本当に好きだったのなら、私は石野に言わなければいけなかった。...なぜ大丈夫の一言が無いの?心配してあげるのが先なんじゃないの?...心を鬼にしなければいけなかったが、体が弱いという落ち目と誇りの無さが霧となって、石野を好きになっている自分が好きだという真実を覆い隠してしまっていた。謝る他なかった。関わらないほうが良かったんじゃないかと本気で思った、それくらい囚われているようだった。

その性格と地頭の良さから高給取りだったがどうもハードワークが祟ったらしい。患ってからは仕事を続けられず、退職しバイトで食いつないでいた。

彼女は難病を抱えていた。