最適停止理論にある、暗黙の前提

生きていると一度くらいは”こういうひとにこそ出会いたかった”というような、理想の人が現れるものである。

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数学者でコメディアンのマット・パーカーという人は、理想の結婚相手を見つけるための最適停止理論というものを考えたそうだ。

  1. 生涯でデートする人数を決める、仮に100人とする
  2. 1.の平方根を取る、前述の例では10人となる
  3. 10人までは結婚を断る
  4. 10人の中で一番良かった人を覚えておく
  5. 婚活を開始し10人中一番良かった人より良い人が現れたら、その人が最適な結婚相手である

まずデートできる人数がある程度確保できないと話にならないのだが、確かに個人的な経験に照らし合わせてもある程度の経験・失敗を重ねないと、自分が交際相手に本当に求めていることが何なのかを理解するのは難しい。ただ、確かに確率論・統計論的にいえば上記の通りなのかもしれないが、個人的にはこれにはまだ足りないピースがあるように思う。具体的には4.5.の項目はもう少し行間を読む必要があり、むしろその行間にこそ結果が大きく左右されるのではないか?という仮説を私は抱いている。

どういうことかというと。まず自分にとって相手のどこがどのように”良いのか”を言語化できていないと、仮によさげな人に物理的に出会えたとしても”良い出会い”には繋がらない。”なんとなく良さそう”と考えているA男と”この人は自分にとって理想の人だ”と考えているB男が同じ女性にアタックしたとして、他の条件が同じならば結果は明らかだろう。

4.の項目の精度の高さ(=自分に合う理想の人とはどんなひとなのか?の考察)が重要なのだ。その精度を高める過程を平方根だけで表現してしまっているので「人数さえ稼げばいいのか」みたいなチーティングを誘発してしまう。

こう解釈されてはマット氏も不本意だろう。そこで4.と5.に私が思う理想の人に出会うのに必要な考え方を補うとすれば、1つ目(4.の項目に対して)は

「イメージできない人は目の前に現れない」

である。

具体的にイメージできないなら、”本当に出会うべきだった良い人”が目の前に現れても、脳に入ってこないので見落としたり見送ってしまう。日々の暮らしの中で自分はどういう人とどんな生活を送りたいのか、どういう人が自分に合うのか、その人がなぜ自分のパートナーとなることで幸せになるのか、なぜ自分がその相手を幸せにできるのか、考えたり、予行演習したりする。

その前提の上で具体的な行動を起こしたり周囲を観察したりすると、今まで見ていた景色が少し違って見えてくる。今まで気に留めていなかった女性のふとした仕草にぐっときたりするのである。ただこれは理想を捨てて妥協しろということでなく、美人投票などの他人の評価に振り回されずに、自分の本当の求めることにもっと集中すべきだということを言いたいのである。

このとき、できるだけ具体的にイメージするのがよいように思う。例えば、

などを想像してみたとき、具体的にどういう行動や振る舞いをする人が理想なのかを考える。例えば

イメージしにくい場合は小説・ドラマ・漫画・アニメの登場人物から入ってもいいが、セリフや物語は往々にしてデフォルメされているのでできれば生身のひととデートをして練習するといい。いきなりデートではハードルが高いようなら友人知人と多人数で遊ぶとかでも構わない。

もうひとつ(5.の項目に対して)は

「生涯でたった一人出会えればOKという気構え」

である。

正直、理想に近い人とうまくゴールインできるのは極稀だ。晩年死ぬ間際に出会うかもしれないし、若気の至りで身勝手に手放してしまいもう二度と復縁できないという状況に陥るかもしれない。現世で会うことは叶わず、来世となるかもしれない。4.の項で良かった人の特徴・具体的で詳細な成功イメージの精度を高めても、良い人が現れるかどうかは運である。ここで必要なのは行動力だろう。婚活パーティーに行ったり趣味を増やしてみたりできそうなことはやってみて良いと思う。が、そんなことせずなんとなくマッチングアプリをやってたら良い人に出会えてゴールインしちゃったなんて人もいる。

これこそ運でしかない。

この人生では出会えることはないのかもしれない...そう思うと悲しいが、その可能性を受け入れられるならば多少は現世を気楽に生きることができる。考え抜いた・やり抜いた結果独身を貫くという結論に至ることもあるかもしれない。それでもその過程で得た”自分が人生で本当に得たいものは何だったのか”という学びは生涯にわたり自分を救ってくれることだろう。

”人事を尽くして天命を待つ”、これに尽きる。